司法試験(予備試験)の向き不向き?法学の向き不向き?

はじめに

私のTwitterにて、公開するブログの内容についてアンケートをとったところ、法学の向き不向きが一番票を集めていた。

そんなわけで、少し物議を醸すような内容に触れていくことにする。

なお、筆者は、ただの受験生であるため、正確性は一切保証できない。現在の考えを記すに過ぎない。この点につき留意していただきたい。

 

前提として、向いている。向いていない。とはどういう意味だろうか。それは、どんな基準によって、だれが判断するのだろうか。いや、そもそも、それは他人が判断できるものなのだろうか。

 

 

ということで、本日もお読みいただきありg

 

おっと、終わるところだった。書けもしないのに、アンケートに入れるんじゃない。と怒られそうだが、まあ完全にノリってことで。ちなみに私は海苔が好物である。ノリだけに。

........。

あれすべってる?

 

とにかく、向き不向きというのは、絶対的なものではない。

 

 

 

向いている。とはどういうことか?

「向く」を広辞苑で引いてみると、

①対象が正面にあるようになる。

②その方向を指す。その方向に進む。

③その傾向になる。おもむく。かたむく。

④従う。服従する。

⑤似合う。ふさわしくなる。適する。

という風に書かれている。さて、何か物事に向いている。という意味で使う場合、⑤の適する。という意味で捉えるのが良いように思う。

 

では、「適する」を広辞苑で引いてみると、

うまくあう。よくあてはまる。その事にふさわしい条件や能力がある。と書かれている。

ようするに、「それに向いている。」とは、「それをするのに、ふさわしい条件と能力がある。」と言い換えることができるのではないだろうか。

 

「向いていない。」は、「向いている。」の単純な反対解釈を行い、「それをするのに、ふさわしい条件と能力がない。」と言えるだろう。

 

まあ結構テキトーなので、その辺だけよろしく(逃げ)。

 

さて、向き不向きの判断に、ふさわしい”条件”と”能力”というふたつの事柄が考慮されると仮定して話を進めていこう。

 

司法試験と法学

司法試験は、実務家登用試験である(二回試験もあるが)。法学試験ではない。

そこで、司法試験の向き不向きと法学の向き不向きは、一緒には考えることができないように思う。

それぞれで求められる条件と能力は違うように思う。

 

司法試験の向き不向き?

結論から言うと、司法試験の向き不向きは、ある。と私は考えている。

なぜならば、司法試験は、法務省がこういう能力を身に付けている者を法曹にする、という基準を設けて選抜している。ようするに、試験だからである。

 

試験で直接的に求められる技量

司法試験で要求される能力のうち、試験における技量というものに着目すると、事案を分析し、適切な条文や判例を利用して、問題を解決に導く能力、が重要視されているように思う。

ここで重要なことは、問題を解決に導くということである。可能な限り論理的な答案を書くことは重要ではあるが、答案においてドイツ法の概念などを持ち出すことは求められていない。

憲法政教分離の問題が出たときに、答案に「政教分離規定は、制度的保障の規定であり、」と皆書くと思うが、これを石川健治『自由と特権の距離』を持ち出して、Schmittの文脈においての制度体保障とは、ワイマール憲法が教会に公法上の法人格を与えているところからはじまってうんたらかんたら、VerfassungとVerfassungGesetzの違いを誤読してうんたらかんたら、なんて司法試験の答案に書いている時間もなければ、紙幅もない。まず、そんなこと求められていない。

 

だが、自分が死のうと、人類が滅亡しようと、地球が消えても、そんな学問的に間違ったことを司法試験の答案であったとしても絶対に書きたくない!という人がいたら、たぶん司法試験には永遠に受からない(出題形式が高等文官試験の頃に戻ったら別かも。)ので、おとなしく研究者の道に進もう。

 

これは私の師匠の言葉だが、司法試験は規定演技であり、定められた振付をどれだけ正確にできたかで評価される。と言っていた。

いわば、この規定演技が絶対に嫌だ。という人は、司法試験には向かないように思う。

 

試験でそれなりに求められる能力

司法試験は、その問題を解決するために、あなたはどう考えましたか、という自らの思考を言語化し、説明しなければならない。そのためには、論理的思考力文章力というのは、それなりに求められるようにも思う。

 

この二つの能力が今なくても、司法試験に向いていないとまでは言えないだろう。

なぜなら、この二つの能力は、努力すれば、改善することができるからである。

論理的思考力と文章力(国語力)は密接な関係があるが、

論理的思考力に関していうなれば、論理トレーニング101題をするとか、

 

これはおすすめである。

 

文章力でいうなれば、たくさんの表現に触れ、それをストックするとか。国語力でいうなれば、論理エンジンをするとか、

 

これは、私が小学生の時にやって、国語力が爆上がりしたものである。おかげで、国語の偏差値は、75~85台であった。

 

勉強をするにあたり求められる能力

司法試験はもちろんのこと、資格試験というのは、あくまで受験である。ようするに、受験勉強ができない人には、相当難しくなるだろう。ここで、向いていない。と書かないのは、本人の努力次第でなんとかなるからである。

 

思うに、勉強とは自分自身と向き合うことである。司法試験予備校を利用しようと、独学の基本書でやろうと、必ず”わからない。”に直面する。もっといえば、わからない自分に出会うのである。

 

これは私が偏差値45の大学にいるからわかることであるが(なぜ国語の偏差値がそれで、その大学にいるかの詳細はこちらのブログを参照)

mirorulaw.hatenablog.com

 

勉強ができない人は、このわからない自分に直面したときに、そんな自分から逃げる(目を背ける)傾向にあるように思う。

そして、自分がわからないのは、わかりやすく教えてくれない授業だとか、先生だとか、教科書のせいにする。

 

私のやっていたサークルにもそんな後輩がいた(この話はまた別でブログにすることにする)。

その人は、いつもわからない。しか言わないのである。答案を書かせても、箇条書きで、どう考えたか聞いても、わからない。としか答えない。

もっというと、なにがわからないか、聞いても、それさえわからない、と言う。

そのわからないをわかる!にしようとか、そんな気概が無いのである。わかる!という感覚を知らないのかもしれないが。

 

目の前のわからないことを、必死に考えることができない、考えることを放棄する人間は、司法試験どころか、勉強自体向いていないだろう。勉強するに必要な能力が備わっていない。

 

自分に足りない能力を身に付けるために、泥臭い努力ができるか否かである。

自分ができもしないのに、

大学生にもなって、大人にもなって、いまさら論理トレーニングとか(笑)、国語力とか(笑)とか思う人間は、向いていない。

 

司法試験に合格するために必要な条件

条件と能力は分けられないような気もするが、ここでは、条件を環境と捉え、わけてみる。

司法試験の受験資格を得るには、法科大学院を修了する(なお、各大学が定める要件を充たしたものは在学中受験可)か、予備試験に合格する必要がある。

 

法科大学院は、奨学金制度や授業料免除制度が充実しているとはいえ、世帯年収によって確か受けることができない場合もある。そして、受けることができなかった場合、100万/年の学費を払うことになる。

経済的に厳しく、そういった制度を受けれなかった場合、必然的に予備試験ルートを選択することになるだろう。

予備試験に合格するためには、予備校を使用することがほぼ必須ともいえる、もっとも、これは法科大学院入試にもいえることだ。

 

そうすると、経済的に厳しい場合、ほぼ司法試験合格は幻へと消える。

 

この間、Twitter上では、経済事情は自分でどうにかすべきだといった弁護士がいた。それに同調するように、自分は日雇いバイトで稼いだとか、そのほかにも同じような論調が飛び交っていたように思う。

 

さて、昨今の物価上昇の中、バイトをして、生活費を払い、予備校の費用を捻出することが可能だと思うだろうか。もし、予備校に通うための分まで稼いだとしたら、今度は、勉強時間が消える。

 

自分が病気だったら、どうであろうか。無理な身体の使い方はできない。バイトをしたら、体力的に勉強はできない。

 

病気に限らず、経済面でもハンデを背負うということは、合格という目標を達成するハードルが爆上がりする。

 

時間も身体も資本なのである。世の中の人々はこれを無視していると思われることが多々ある。

 

この状態は、司法試験に合格するために必要な条件が満たされていない状態である。

 

この場合、合格は不可能とまではいわないが、それだけ苦しむことになる。

 

司法試験の向き不向きの結論

こんな感じだろうか。だが、再度いっておくが、向いている向いていない。は絶対的なものではない。欠けているものが能力的なものであった場合、自分の努力次第で、向いている状態にも、向いていない状態にもできるように思う。

 

だが、欠けているものが環境的なものであった場合、これは自分の努力ではどうしようもないだろう。

 

法学の向き不向き?

法学そのものに関していうなれば、だれもが向いている。とも言えそうである。

というのも、われわれは法規範が働いている中で生活し、何か問題が起きれば、法の規制というものを意識する。そして、誰もが”権利意識”というものを有しているだろう。

皆、法といものを考えることはできるのである。そういう意味では、法学に向いていない人はいない、ともいえるだろう。

 

ここらへんのお話は、団藤重光『法学の基礎』を読むと良い。

 

 

法学研究者として生計を立てれるか

法学を専攻し、研究者として、やっていくために、どのような能力が必要であるかについては、私は何も書けない。

自分も、研究者を志してはいるが、自分の脳みそのスカスカ具合で本当になれるのだろうか、内心無理なんだろう、と思いながら、それを少しでもマシにすべく勉強している。

 

ただ、少なからず言えるのは、じっくり深く考えることができない人は、研究には向いていないように思う。

何時間も何日も考え続ける。それが性分に合わないのなら、やめた方が良いのかもしれない。

 

まとめ

疲れてきたので、このへんで終わりにしておこうと思う。

身体面や経済面のような、自分ではどうしようもないことを除いて、向いているか、向いていないかは、自分の努力次第で変わるように思う。

 

今回は、結構長くなってしまって申し訳ない限りである。

お読みいただいた方はありがとうございました。